馬車が競う、もうひとつの競馬。
繋駕速歩競走 完全ガイド
騎手が馬に乗るのではなく、馬が引く一人乗りの車(サルキー)に御者が乗って速さを競う、それが繋駕速歩競走(けいがそくほきょうそう)です。世界では平地競馬に匹敵する巨大産業でありながら、日本では意外と知られていないこの競技を、歩法・ルール・距離・賞金・馬主・競走場まで一気に解説します。
繋駕速歩競走とは
繋駕速歩競走(英:Harness Racing)は、馬がサルキー(sulky)と呼ばれる二輪の軽量車を引き、御者(ドライバー)がそれに乗ってタイムと着順を競う競馬の一種です。「繋駕」は馬を車に繋ぐこと、「速歩」は駆けずに歩法を保って速く進むことを意味します。
最大の特徴は、馬が全力疾走(ギャロップ)してはいけないこと。決められた歩法(トロット(速歩)またはペース(側対歩))を最後まで崩さずに走り切る、いわば「速さと規律の両立」を競う競技です。
フランス、スウェーデン、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イタリア、フィンランドなどで盛んで、フランスでは競馬売上のおよそ半分を速歩競走が占めるほどの人気があります。
2つの歩法:トロットとペース
まず「歩法」ってなに?
馬は速さに応じて脚の動かし方(=歩法)を切り替えます。人間で言えば「歩く → 早歩き → 走る」の切り替えと同じです。
| 馬の歩法 | 人間でいうと | 速さの目安 |
|---|---|---|
| 常歩(なみあし) | ふつうに歩く | 時速 約6km |
| 速歩(トロット)/側対歩(ペース) | 競歩・早歩き | 時速 30〜50km |
| ギャロップ(駈歩・襲歩) | 全力ダッシュ | 時速 60〜70km |
普通の競馬は一番速い「ギャロップ」で競いますが、速歩競走ではこれが反則。あえて一段遅い歩法に縛って競うので、「馬の競歩」とイメージすると一番分かりやすいです。競歩の選手が「走ったら失格」になるのと同じで、速歩競走の馬も「駆けたら失格」になります。
OKな歩法は2種類:違いは「どの脚がペアで動くか」だけ
馬の脚は4本。速歩競走では、このうち2本ずつがペアになって同時に動く歩法だけが許されます。ペアの組み方が2通りあり、それが「トロット」と「ペース」です。下に2つのアニメーションを続けて置きました。1つ目は真上から見た図(上が進行方向。脚首のランプが前後にストライドし、同じ色の2本が同時に前へ振り出されます)、2つ目は横から見た実際のシルエットで、トロット特有の「上下の弾み」とペース特有の「左右の揺れ」という体の動きの違いを比べたものです。
脚首のランプが同じ色の2本が、同時に前へ出ます。オレンジのペアと青のペアが交互に振り出され、動いている間はランプが明るく点灯。横の図は馬を右側から見た構図です(手前の脚=右脚=青、奥の脚=左脚=オレンジ)。上の図の左右と立体的に一致します。左のトロットは青と橙がナナメに組み、右のペースは手前の青2本・奥の橙2本が交互に動きます。
トロット(速歩)
「左前脚 と 右後脚」「右前脚 と 左後脚」、体の対角線どうしがペア。タッタッタッ…と2拍子で刻む、馬にとって最も自然な早歩きです。人間が歩くとき「右足と左腕」が一緒に前へ出るのと同じ、体をねじるバランスの取り方。ヨーロッパの速歩競走はほぼすべてこちら。
ペース(側対歩)
「左前脚 と 左後脚」「右前脚 と 右後脚」、体の同じ側の2本がペアで、左半身→右半身と交互に前へ出ます。人間の「なんば歩き」の馬バージョンで、ラクダも同じ歩き方。図の馬体が左右に揺れているように、実物も体がユラユラ揺れるのが特徴です。トロットよりわずかに速く、北米・オセアニアの主流。
映像で見るなら「揺れ」と「馬具」に注目してください。体が左右に揺れながらスイスイ進んでいればペース、上下にリズミカルに弾んでいればトロットです。もっと簡単なのは脚元で、ペースの馬は歩法を崩さないよう同じ側の前後の脚を革のループで緩くつなぐ「ホップル(hopples)」という馬具を着けていることがほとんど。脚に輪っかのベルトが見えたらペーサーです。トロッターは基本的に着けないため歩法が乱れやすく、「トロットの方が失格リスクが高い競技」と言われます。
「トロット」「ハーネス」…呼び名の違い
日本語の記事や海外サイトでいろいろな呼び名が飛び交いますが、整理するとこうなります。
| 呼び名 | 意味・使われ方 |
|---|---|
| 繋駕速歩競走 | 日本語の正式名称。単に「速歩競走」とも。 |
| ハーネスレーシング (Harness Racing) | 英語圏(特に北米・豪州)での総称。「ハーネス=馬具・引き革」で車を引くことに由来。トロットもペースも含む競技全体を指す最も広い言葉。 |
| トロット / トロッティング (Trotting / 仏 Trot) | ヨーロッパ(仏・北欧など)での呼び方。欧州はトロット歩法が主流なので、競技全体を「トロット」と呼びます。フランスの統括団体も「Le Trot」。 |
| スタンダードブレッド レーシング | 北米で使う品種名(後述)から来た言い方。 |
| 騎乗速歩(モンテ) (Trot Monté) | 車を引かず、騎手が馬に乗って速歩で競う形式。フランスで盛んで、繋駕(アタレ/attelé)と並ぶもう一つの速歩競走。 |
ルール:「走ってはいけない競馬」
基本の勝敗
決められた距離を、規定の歩法を保ったまま最も早くゴールした馬が勝ち。ここは普通の競馬と同じです。
最重要ルール:ブレイク(歩法違反)
レース中に馬が歩法を崩してギャロップ(駈歩・襲歩)になることをブレイク(break / 仏:フォート faute)と呼びます。ブレイクした場合のルールは概ね次の通りです。
- ① すぐに歩法へ戻す義務
- ドライバーは直ちに馬を外側へ寄せるなどして他馬を妨害せず、速やかに正しい歩法へ復帰させなければなりません。
- ② ブレイク中に利益を得たら降着・失格
- ギャロップの方が速いため、ブレイクで距離や順位を稼ぐことは禁止。審判が「ブレイクで有利になった」と判断すれば着順降下や失格になります。
- ③ 長すぎるブレイクは即失格
- 規定歩数・規定距離(国により異なる)を超えてギャロップを続けると失格。特に欧州(フランスなど)は判定が厳格で、ゴール前のブレイクで1着入線馬が失格になることも珍しくありません。
その他の主なルール
先頭のインコースの馬は直線入口でその位置を守るか外へ出る義務があり、後続はその内側に開く「オープンレーン」から差せる、という独特のコース取りルールを持つ地域もあります。逆に先頭の外側(2頭分外)を走り続けるポジションは「デスポジション(死の位置)」と呼ばれるほど消耗が激しく、展開のカギになります。進路妨害・斜行は平地競馬同様に審議対象。ドライバーの鞭の使用は近年厳しく制限され、北欧などでは事実上の使用禁止に近い規制もあります。装具(ホップル、ブーツ、頭絡など)は事前登録した仕様で出走します。
距離・タイム・スタート方式
距離
| 地域 | 標準距離 | 特徴 |
|---|---|---|
| 北米(米・加) | 1マイル(約1,609m) | ほぼ全レースが1マイル。タイム比較文化が強い。 |
| フランス | 2,100m〜3,000m超 | 凱旋門賞級の大レース「アメリカ賞」は2,700m。長距離・持久力重視。 |
| 北欧(瑞・芬) | 1,640m / 2,140m / 2,640m / 3,140m | 基本距離+周回で刻む体系。エリートロッペットは1,609m。 |
| 豪州・NZ | 約1,600m〜3,000m | ペース主流。マイル前後の高速戦が中心。 |
タイムの目安
速歩とはいえ驚くほど速く、トップクラスは1マイルを1分50秒前後、時速にして約50kmで駆け抜けます。ペースの世界レコードは1分46秒台、トロットでも1分49秒台に到達しており、平地競馬(1マイル約1分32〜35秒)と比べても遜色のないスピードです。タイム表記は「1:52.4」のように分・秒・1/10秒で示され、北米では「2分を切る=2:00バー突破」が一流の証とされてきました。
スタート方式
- オートスタート(モビルスタート)
- 大きな折りたたみ式ゲートを付けた自動車が先導し、走りながらゲートを畳んで発走する方式。北米・北欧で主流。助走をつけたまま公平に発走できます。枠順はこのゲートの後ろの並び順で決まります。
- ボルトスタート(スタンディング系)
- フランスなどで使われる、車を使わず所定ラインから発走する方式。実績馬ほど後方・長い距離からスタートする距離ハンデ(例:+25m、+50m)を課せるのが特徴で、強い馬が余計に走る「ハンデ戦」が組みやすくなります。
出走する馬:サラブレッドではない
速歩競走の馬は基本的にサラブレッドではなく、速歩に特化して改良された専用品種です。
| 品種 | 主な地域 | 特徴 |
|---|---|---|
| スタンダードブレッド (Standardbred) | 北米・豪州・NZ | 速歩競走の世界標準品種。19世紀米国で「1マイルを標準タイム(2分30秒)以内で走れた馬だけを血統登録する」という19世紀の基準が名の由来。トロッター系とペーサー系に分かれる。サラブレッドよりやや小柄で頑丈、気性は穏やか。 |
| フランストロッター (Trotteur Français) | フランス | 長距離と騎乗速歩(モンテ)にも対応する持久型。アメリカ賞を頂点とする仏速歩界を支える。 |
| オルロフトロッター | ロシア | 18世紀にオルロフ伯爵が作出した歴史的名品種。 |
| コールドブラッド系トロッター | 北欧 | ノルウェー・スウェーデン在来の重厚な速歩馬。北欧では専用レースがあり根強い人気。 |
スタンダードブレッドは引退後の再調教がしやすく、乗馬やアーミッシュの馬車馬として第二の人生を送る馬も多いことで知られます。また現役期間が長く、10歳前後まで一線で走る馬も珍しくありません(欧州の年齢上限は概ね10〜11歳)。
歴史:戦車競走から近代スポーツへ
繋駕速歩競走のルーツは、約2000年前の古代ローマの戦車競走(チャリオットレース)まで遡るといわれます。映画『ベン・ハー』のあの場面、「人が車に乗り、馬に引かせて競う」形が原型です。ローマ帝国の滅亡後も馬車文化はヨーロッパ各地に残り、「うちの馬車馬のほうが速い」という日常の張り合いが、やがて賭けを伴う競技として形を整えていきました。フランスでは1806年、パリのシャン・ド・マルスで最初期の組織的なトロット競走が記録されています。
北米では19世紀、開拓地の移動を支えた馬車馬たちの速さ自慢が競技化を後押しし、1879年に専用品種「スタンダードブレッド」の登録基準が確立。1926年創設のハンブルトニアン、1946年創設のリトルブラウンジャグと、現代まで続くクラシック競走が整備されました。
ヨーロッパ側の頂点であるアメリカ賞(1920年創設)の名前には、第一次世界大戦でアメリカが連合国側として参戦したことへの感謝が込められています。スウェーデンのエリートロッペットは1952年、ソルヴァッラ競馬場の開場25周年を記念して始まりました。大レースの名前ひとつひとつに、20世紀の歴史が刻まれています。
世界の主要レースと賞金
賞金規模は平地競馬のG1に匹敵するものもあります。代表的なビッグレースを挙げます(賞金は近年の総額目安)。
| レース | 国・競走場 | 条件 | 賞金目安 |
|---|---|---|---|
| アメリカ賞 (Prix d'Amérique) | フランス パリ=ヴァンセンヌ | トロット 2,700m 毎年1月末 | 総額 約100万ユーロ (約1.6億円) |
| ハンブルトニアン (Hambletonian) | アメリカ メドウランズ | 3歳トロット 1マイル 「速歩のケンタッキーダービー」 | 総額 100万ドル級 |
| エリートロッペット (Elitloppet) | スウェーデン ソルヴァッラ | トロット 1,609m 招待 予選+決勝を同日2走 | 決勝1着 数百万クローナ |
| リトルブラウンジャグ (Little Brown Jug) | アメリカ・オハイオ | 3歳ペースの最高峰 | 総額 数十万ドル |
| インタードミニオン | 豪州・NZ 持ち回り | ペース/トロット両部門 | 総額 100万豪ドル級 |
| ノースアメリカカップ | カナダ・ウッドバイン | 3歳ペース | 総額 100万加ドル |
年間シリーズとしては、3歳トロット三冠(ハンブルトニアン/ヨンカーズトロット/ケンタッキーフューチュリティ)、ペース三冠(ケインペース/リトルブラウンジャグ/メスセンジャーステークス)などがあり、欧州にはヴァンセンヌの冬季ミーティングを軸にした国際戦線があります。トップホースの生涯獲得賞金は数百万ドル(数億円)に達します。
レース体系:大レースには誰が出られる?
日本の中央競馬は「収得賞金」でクラスが決まり(未勝利 → 1勝クラス → … → オープン)、G1も原則として賞金上位馬から出走枠が埋まっていきます。では速歩競走も賞金を稼げば大レースに出られるのか?、答えは「国による」で、ここが速歩競走のいちばん面白い(そしてややこしい)ところです。
北米型:大レースは「積立金」がすべて
北米の日常のレースは、日本とよく似た賞金ベースのクラス分けです。
- クオリファイヤー(資格試験レース)
- 日本にない仕組み。デビュー前の馬や、ブレイクを繰り返した馬は、賭けの対象にならない「クオリファイヤー」で規定タイム内・歩法を乱さず走れることを審判に証明しないと本番レースに出られません。「速く走れて当たり前、まず正しく歩けるか」を試す、速歩ならではの入口です。
- クレーミング/コンディションドレース(日常のクラス分け)
- 下級は値札付きのクレーミング競走。その上は「過去5走の獲得賞金◯ドル未満」「通算△勝以下」といった条件を指定するコンディションドレースで、実質的に日本の「1勝クラス」「3勝クラス」に近い賞金ベースの階段です。勝って稼ぐと自動的に上の条件へ押し出されます。
- プリファード/インビテーショナル/オープン(FFA)
- 階段の最上段。番組編成係(レースセクレタリー)が実力上位馬を選んで組む準招待戦です。
- ステークス(大レース): ここが日本と決定的に違う
- ハンブルトニアンなどの大レースは、賞金を稼いだ馬が出られるのではなく、1歳・2歳の時点からノミネーション料と維持金(サステイニングペイメント)を払い続けた馬だけに出走資格があります。支払いを一度でも怠ると、どれだけ賞金王でも出走不可。賞金総額の相当部分がこの積立金で作られており、「大レースは馬主が数年がかりで買う宝くじ」とも言われます。応募超過時はエリミネーション(予選レース)を本選の1週前に行い、上位馬だけが決勝へ進みます。
- サイアーステークス(州生産馬限定シリーズ)
- 各州が生産振興のために組む、その州で種付け・生産された馬限定の高額シリーズ。地方の生産者でも大金を狙える仕組みです。
フランス型:日本にいちばん近い「生涯獲得賞金」制
フランスは各馬の生涯獲得賞金(gains)そのものが出走条件になっています。番組表には「獲得賞金◯ユーロ以下の馬」と書かれ、勝って賞金が増えると自動的に上のクラスへ、日本の収得賞金制度と発想はほぼ同じです。さらにボルトスタートのレースでは、同じレース内でも獲得賞金の多い馬に+25m、+50mの距離ハンデが課されるため、「稼ぐほど条件が厳しくなる」が徹底しています。頂点のアメリカ賞は、指定前哨戦(B戦)の勝ち馬に優先出走権が与えられ、残り枠は獲得賞金順で埋まる、この点も日本のG1の出走権の考え方に近い構図です。
北欧型・オセアニア型
スウェーデンなど北欧は獲得賞金とレーティングでクラス分けしつつ、頂点のエリートロッペットは完全招待制、主催者が世界中のスターホースを口説いて呼ぶ「オールスター戦」です。オーストラリア・ニュージーランドはレーティング(ポイント)制で、勝つごとにポイントが加算されて所属クラスが上がる、日本の地方競馬のクラス分けにも似た方式です。
| 地域 | 日常レースのクラス分け | 大レースへの道 |
|---|---|---|
| 日本(平地・参考) | 収得賞金 | 賞金上位から優先出走 |
| 北米 | 直近賞金・勝利数の条件戦 +クレーミング | 幼駒時からの積立金+予選(エリミネーション) |
| フランス | 生涯獲得賞金(+距離ハンデ) | 前哨戦勝ち+獲得賞金順 |
| 北欧 | 獲得賞金・レーティング | 招待制(エリートロッペット)ほか |
| 豪州・NZ | レーティング(ポイント)制 | ポイント・賞金+一部招待 |
レースの「形」もいろいろ
1発勝負だけでなく、同じ日に予選と決勝を2回走るエリートロッペット方式、19世紀から続くヒート戦(複数回走って総合成績で決める)の名残、数週にわたるシリーズ戦(レグ+ファイナル)など、平地競馬より番組のバリエーションが豊富です。1頭が1日に2度全力で走る姿は、スタンダードブレッドのタフさの証明でもあります。
世界の主な競走場
| 競走場 | 国 | メモ |
|---|---|---|
| ヴァンセンヌ競馬場 | フランス(パリ) | 速歩の聖地。冬の夜間開催と「アメリカ賞」で有名。坂のある独特のコース。 |
| メドウランズ | アメリカ(NJ州) | 北米最大のハーネス場。1マイルトラックで高速決着。 |
| ヨンカーズ・レースウェイ | アメリカ(NY州) | 小回りハーフマイルトラック。国際招待レースも開催。 |
| ソルヴァッラ | スウェーデン(ストックホルム) | エリートロッペットの舞台。北欧速歩文化の中心。 |
| シャルロッテンルンド | デンマーク | コペンハーゲン近郊の伝統トラック。 |
| メルトン(タボコープパーク) | オーストラリア(VIC州) | 豪州ハーネスの中心地のひとつ。 |
| アディントン | ニュージーランド | NZカップ開催。南半球屈指のペース王国。 |
規模感の補足として、フランスでは年間およそ1万頭のトロッターが生産される世界最大の速歩王国であり、スウェーデンには33の競馬場のほぼすべてが速歩用(サラブレッド専用はわずか1場)、北極圏に近いボーデン競馬場では真冬もレースが続きます。イタリアでは平地競走より速歩の人気が高いとさえ言われます。
トラックは平地競馬より小さめ(ハーフマイル〜1マイル)のオーバル形状が多く、照明付きナイター+周回を間近で見られるのが観戦の魅力。北欧では地方の小さな町にもトラックがあり、生活に根づいた娯楽になっています。
馬主(オーナー)の世界
速歩競走のオーナー文化は、平地競馬より「庶民的で参加しやすい」のが特徴です。
- 馬の値段が比較的安い
- スタンダードブレッドの1歳馬はセリで数千〜数万ドル程度から購入可能。サラブレッドのトップセールと比べると一桁〜二桁安く、個人でも手が届きます(もちろんトップ血統は数十万ドルに達します)。
- 共有(シンジケート)が盛ん
- 北欧や豪州では数十人〜数百人で1頭を持つクラブ・共同馬主が一般的。「町のみんなで持つ1頭」が大レースに出ることもあります。
- オーナードライバー/オーナートレーナー
- 免許を取れば馬主自身が調教し、レースでサルキーに乗ることも可能。北欧にはアマチュアドライバー限定レースもあり、「自分の馬を自分で御す」文化は平地競馬にはない醍醐味です。
- 維持費
- 預託料は地域差がありますが月10〜20万円相当が目安とされ、サラブレッドの中央競馬預託より低め。現役期間が長いため、投資回収の機会が多いのも特徴です。
実際にオーナーになるまでの流れ
国によって細部は違いますが、おおまかなステップは共通しています(以下は米国・豪州・北欧を想定した一般的な流れです)。
- STEP 1:オーナー登録(ライセンス取得)
- 各国の統括団体(米国:USTA、豪州:Harness Racing Australia傘下の州団体、スウェーデン:Svensk Travsport など)にオーナーとして登録します。申請書と登録料、身元確認程度で、平地競馬の馬主資格より要件はずっと軽いのが一般的です。
- STEP 2:馬を手に入れる
- 入手ルートは主に3つ。①セリ(オークション)、米国ならハリスバーグやレキシントンの1歳馬セールが有名。②クレーミング競走、出走馬に値札が付いていて、レース前に申し込めばその馬を買える北米独特の制度。手っ取り早く現役馬を持てます。③共同馬主クラブ・シンジケートに参加、数万円〜の持分から始められ、初心者に最もおすすめ。
- STEP 3:調教師(トレーナー)に預ける
- 公認トレーナーと預託契約を結び、厩舎に入れて出走登録へ。前述の通り、自分でトレーナー/ドライバー免許を取って管理する道もあります。
- STEP 4:出走・賞金の受け取り
- 賞金は着順に応じて分配(概ね1着50%・2着25%…といった配分)され、そこから調教師・ドライバーへの歩合と預託料を差し引いた分がオーナーの取り分になります。
過去に起きた事件・不祥事
賭けの対象である以上、速歩競走も八百長やドーピングと無縁ではありません。歴史に残る事件を知っておくと、現在の厳格なルール(鞭規制、薬物検査、ブレイク判定の厳しさ)がなぜあるのかも見えてきます。
- 1970年代・ニューヨークの八百長スキャンダル
- ヨンカーズやルーズベルト・レースウェイといったNYの主要ハーネス場で、高配当馬券(スーパーフェクタ=4連単)を狙った組織的なレース固定が横行していたことが発覚。ドライバーらが起訴・追放される大事件となり、北米ハーネス界の監視体制が強化される転機になりました。当時のNYハーネスは夜間開催で観客動員も売上も全盛期だっただけに、社会的な衝撃も大きなものでした。
- 2020年・米国の大規模ドーピング摘発
- FBIと連邦検察が競走馬への違法な能力向上薬物の投与ネットワークを摘発し、調教師・獣医師ら約30名を起訴。サラブレッド界の大物調教師とともに、スタンダードブレッド(ハーネス)の複数の有力調教師も含まれていたことで業界を揺るがしました。検査で検出されにくい「デザイナードラッグ」が使われていた点が悪質とされ、米国の競走馬医薬品規制強化(HISA法制定の流れ)を後押しした事件です。
- 2010年代・オーストラリアNSW州のレース固定事件
- ニューサウスウェールズ州のハーネスレースで、ドライバーや関係者が結託して着順を操作し賭けで利益を得ていたことが警察の捜査で発覚。複数のドライバーが有罪判決や長期の資格停止処分を受け、豪州ハーネス界最大級の不祥事と呼ばれました。以後、豪州では賭け業者との情報連携による監視(ベッティング・インテグリティ体制)が大幅に強化されています。
- 繰り返されるドーピング・違法治療の摘発
- 北米では成績が急変した厩舎への抜き打ち検査や厩舎捜索が定期的に行われ、資格停止・追放処分は珍しくありません。欧州でも禁止薬物の検出による失格・賞金返還は毎年発生しています。近年は禁止対象が「痛み止めによる故障の隠蔽」にも広がり、馬の福祉(ホースウェルフェア)の観点からの規制が主流になりつつあります。
- 動物福祉をめぐる論争
- 事件とはやや異なりますが、鞭の使用、ホップルの是非、引退馬の行き先(と畜問題)などは各国で継続的に議論されており、ノルウェーの鞭原則禁止のように、批判を受けてルール自体が変わった例もあります。
日本と繋駕速歩競走
意外に思われますが、日本でもかつて中央競馬・地方競馬で普通に開催されていました。その盛衰は、そのまま日本の近代史と重なります。
- 大正時代:軍馬育成のために奨励
- 大砲や物資を曳く軍馬の育成という国策目的で速歩競走が奨励され、現在のJRAの前身にあたる団体でも多数開催されました。当時は4,000mを超える長距離・20頭以上の多頭数という豪快な番組も珍しくなく、兵庫には「鳴尾速歩競馬会」という速歩専門の競馬倶楽部まで存在しました。ロシア産のオルロフトロッターは「露トロ」の愛称で親しまれていました。
- 戦中〜戦後:中断と復活
- 太平洋戦争で中断し、多くの馬が軍馬として戦地へ。戦後は競走馬不足を補う形で1950年頃から関西地区で復活し、アメリカからスタンダードブレッドを輸入、モービルスタートゲートも導入されました。
- 1968年・1971年:廃止
- 1968年12月、中京競馬場のレースを最後に中央競馬から廃止。1971年6月、盛岡競馬場を最後に地方競馬からも姿を消しました。サラブレッド平地競走の人気拡大、厩舎運営上の両立の難しさ、「スピード感に乏しい」というファンの声、が重なった結果とされます。
- 現在:道東に残る火
- 公営競技としては消滅しましたが、北海道の道東エリアでは畜産振興を目的とした草競馬として繋駕速歩が今も行われています。競技人口は数十人規模で「日本一競技人口の少ないスポーツ」と呼ばれることも。また沖縄にかつてあった琉球競馬「ンマハラシー」は側対歩(ペース)で走らせる競技で、日本列島にも速歩文化の系譜が残っています。
北海道帯広のばんえい競馬は「馬が曳く」姿こそ似ていますが、重いソリを曳く力比べであり、速さを競う繋駕速歩競走とは別競技です。
馬券・観戦の楽しみ方
馬券の種類は平地競馬とほぼ同じで、単勝・複勝・連勝式・三連系などが発売されます。フランスのPMU、スウェーデンのATGなどが運営し、特に北欧の「V75」(指定7レースの1着馬を全部当てる重勝式)は毎週数十億円規模が動く国民的ギャンブルです。
予想で見るべき速歩ならではのポイント
- ブレイク癖
- どんなに速くても歩法が乱れやすい馬は大敵。過去成績の失格・降着歴(仏では「D」表記など)を必ずチェック。
- 枠順とスタート方式
- オートスタートでは内枠有利が顕著。ボルトスタートではハンデ距離(+25mなど)が能力差をどこまで埋めるかが焦点。
- ドライバー
- 位置取りと折り合いの技術差が大きく、トップドライバーの勝率は圧倒的。騎手以上に「人」で買う競技と言われます。
- 裸足(シューズオフ)や装具変更
- 蹄鉄を外して出走(barfota/裸足)すると走りが軽くなるとされ、北欧では有力な好走サイン。装具変更情報が公式に出ます。
ミニ用語集
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| サルキー(sulky) | 馬が引く一人乗り二輪車。重さ約15〜20kg。「バイク」とも呼ばれる。 |
| ドライバー(driver) | サルキーに乗る御者。騎手(ジョッキー)とは区別される。 |
| トロッター / ペーサー | それぞれトロット歩法・ペース歩法で走る馬。 |
| ブレイク(break) | 歩法を崩してギャロップになる違反。仏語では faute(フォート)。 |
| ホップル(hopples) | ペーサーの同側前後脚をつなぎ歩法を安定させる革具。 |
| オートスタート | ゲート付き自動車が先導する発走方式。 |
| ボルトスタート | 距離ハンデを付けられる立ち上がり式の発走方式。 |
| モンテ(monté) | 騎手が騎乗して行う速歩競走。フランスで盛ん。 |
| スタンダードブレッド | 速歩競走用に改良された北米原産の品種。 |
| 2:00バー | 1マイル2分の壁。かつての一流馬の基準タイム。 |